ブランドとは、
記憶の中で燃え続ける炎である
~スーパーカー幻想前編

水平対向12気筒が、背後のトリプルウェーバー越しに咆哮する。 それはもはや音ではない。空気を裂く意志であり、機械が魂を持った瞬間の叫びだ。 滑走路を疾走するフェラーリ365GT4/BB。2速全開。 タコメーターの針は、まるで重力を忘れたかのように、7000rpmへと舞い上がる。 その刹那、深紅のシルエットが横をすり抜ける。 フェラーリよりも甲高く、より獰猛に、より異質に。 それはランボルギーニ・カウンタック。 1970年代半ば、世界の頂点に君臨した二頭の獣。 キング・オブ・スーパーカー。 私が居るのはそのBBのパッセンジャーシートだ。今、こんな特等席で夢のような体験をしていることを、あの頃少年だった自分に教えてやりたい。

1970年代「スーパーカーブーム」が日本を席巻した。 小学4年生だった私も、華麗なスーパーカーたちに熱狂したひとり。 オイルショックで国産スポーツカーが沈黙した時代。 異星から来たかのような造形と性能を持つスーパーカーは、 まさに“文化”としての衝撃だった。 12気筒、300km/h。 それは数値ではなく、夢の単位だった。 子どもたちは熱狂した。大人たちも、社会も、そして日本という国までもが。 

スーパーカーは、単なる乗り物ではなかった。 それは「ブランド」という概念の原体験だった。

自動車の価値は、通常、機能性に基づいて構築される。 速さ、安全性、燃費、整備性。 それらは確かに重要だ。だが、スーパーカーにおいては違う。 フェラーリ、ランボルギーニ、マセラティ・・・彼らは“情緒的価値”を最上位に据える稀有な存在だ。 乗り心地?整備性?そんなものはどうでもいい。 いや、むしろ悪いほうがいい。乗るたびに覚悟がいる。それがスーパーカーだ。

それは、天皇陛下が人間でありながら国の象徴であることに似ているかもしれない。 スーパーカーは、機械でありながら夢の象徴なのだ。合理性を越えたところにこそ、真の価値がある。

逃げ水の彼方に霞む赤いカウンタック。 その姿は、遠ざかり消えてゆく。 

だが、情緒的価値は消えない。 50年を経ても、あの咆哮は心の奥で燃え続ける。それは「本物」の証だ。 それこそが、我々がスーパーカーに夢を見る理由。

そしてそれが「ブランド」の力なのだ。

Brand Control Adviser  A.MAEDA


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